2011年4月10日日曜日

杉戸 洋 - 青木 淳 展needle and thread@小山登美夫ギャラリー

観た感想 ☆☆☆★★ 

久々にレビュー書くのでちょっとリハビリ気味。
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インスタレーションはWhat is this? というか、一体何なのかよくわからなかったけど、ただこの展覧会を観たことでかえって杉戸洋の絵画の良さを再実感できた気がする。 

インスタレーションでは、キャンバスのまわりにピンクのなわとびを貼り付けてあったり、その横に緑の毛糸を這わせたり、色つきのピンポン玉をすだれのように壁いっぱいつけたり、壁から吊るしたカーペットの端っこが折れて、犬の耳みたいに見えていたりしたけど、

そして、たぶん金氏徹平とか名和晃平だったなら、こういう展示も理屈で考えて、それで成立させている気がするけど、  
杉戸さんの場合は、それが何だと理解しながらやっているわけではないのではない、ドローイングなのではないかと思いつつ

でも、説明できる科学じゃなくて、錬金術(その辺にあるものから変化・精錬させて金とか不老不死の薬とか作り出そうとした昔の人たちの化学実験のこと)のプロセスがあるからこそ、彼の絵画は、金になぞらえてたとえるなら、純度が高められるのだなと。   

なお、今回は杉戸洋と青木淳(建築家)の共作展となっていたが、青木淳さんは正直あまりいてもいなくても変わらないのではと思ってしまった。杉戸さんが立体をつくる起爆剤となった人ではあるのかもしれないが、なんかアートにこびて自分も杉戸洋風、みたいな感じを頑張って出そう、みたいな。残念ながら彼が関わっていることであまり足されているものがある、という風には感じられなかった。杉戸さんとは対照的に、この人はあんまり自由になれてない。 

向かって左の小室にかかっていた、アーガイル柄の作品、それからカラフルな星屑のような作品、奥のメインルームの右壁奥にかかってた、サムホールくらいの小品、欲しい。たぶん全然手が届かないけど。

2010年12月5日日曜日

ULTRA003-EMERGING DIRECTOR'S ART FAIR NOVEMBER SIDE

観に行った日 2010年11月3日
観た感想 ☆☆☆★★

本当は、まあ、いいかな今年は、と思っていたのだった。理由は去年書いた記事を読んでください。それでも一応見ておくかくらいの気持ちで寄った。そして、いい意味で裏切られた。その理由は、入り口最初にあったブース、「アイランド」ギャラリーの若いディレクターさんの展示がアツくて力の入っているのが見て伝わってきたこと。ここの印象が良かったから、このフェアもうちょっとちゃんと見てみようかなという気になったと言っていい。

そのアイランドの展示で最初に目に入ってきたのは映像作品を観るため用意されたヘッドフォンを引っ掛けておく台だった。ヘッドフォン自体はボリュームコントロールもついてない安価そうなもの(違ったらごめんなさい!!)、でもお金はかけられなくても、その掛ける台ひとつも見せ方にはこだわろうという気持ちが感じられた。あと、決して広くはない1ギャラリーあたりの展示壁の持ち分のなかで、四人の作家を掛け、しかもひとりひとりを殺さないよう、知恵を絞った跡が見られた。展示を間違うとどの作家も死んでしまうし事実そういう例もよく見かける。(たとえば昨年のこのフェアで見た、ユカリアート・コンテンポラリーはそう思った)おそらく、出品作家たちがこの展示を観たら、100パーセント満足ということはないかもしれないが、ただベストを尽くしてくれたことに対し、信頼と感謝の念を抱くのではないかと思いながら見た。このディレクターさんの作家に対する愛が伝わってくるし、また、自分が信じている作家の魅力をどうにかして観る人たちにもわかってもらいたいという、もどかしさ混じりの必死さが伝わってきた。

洗練より、こういう荒削りだけどアツい感じは、フレッシュ世代のアートフェアならではの良さだろう。また多分、このアートフェアを観に来ている客の側にも、若い、今回出展しているディレクターと同年代の、そして、どこかのギャラリーで取り扱われたいと思っている作家が多くいるのではないだろうか。彼らはこのフェアに来て、誰のところで扱われたいか。自分から見て信頼の置けそうなギャラリストは誰か、真剣なまなざしで観察しているのではないだろうか。きっとだからこれに出展している若いギャラリストにとっては、そういう意味でのプレゼンテーションの機会にもなっている。ギャラリストと作家とは、きっと二人三脚だろうから。 

ただ、アイランドのディレクターさんの展示については、それだからこそ、映像作品の上映が終わってしまったときに、すぐにリロード再生がされずポーズ状態でほったらかしにされていたりする「ぽか」は残念だと思った。その間に、せっかくのその作品に触れることなく通り過ぎてしまうお客さんが出てしまうわけで、それはこのディレクター自身、望むところではきっとないだろう。
自動ループにしておくか、ないしは常に目を光らせて、間のブランクが出ないようにするか気を配るべき。

ここを筆頭に、荒削りだけれど、若く、そして本気なギャラリスト(その中にはまだ自分のお店を持っていない、番頭的な人も多い)が真剣に勝負しようとしている姿があちこちで見られた。
そしてその表現が等身大に批評されていたというか、
「大御所」とかでない分、みなお客さんは、正当に自分の目で評価できているようだった。
ギャラリー名を隠しているのも、お客さんが看板にまどわされずに済み、自然と自分自身の目をあてにするようになるから、良いと思う。
実際、ぜんぜん面白くなくて記憶に残らなかったブースが、後で見たら結構知られているギャラリーだったり、逆に面白いと思ってチェックをして後でリストを見たら、聞いたこともない新しいギャラリーだったりした。

未知数を見る喜びなら、G-tokyoより、こちらだと思います
まあハズレも覚悟ですけど。それもまた楽しみのうちということで。
あんまり期待しないで来ると、意外に収穫があるかもしれない、そんなアートフェア。


(注)今回、ULTRAは出展者多数ということで? 10月末に3日間行うオクトーバーサイド、11月頭の3日間行うノヴェンバーサイドと、それぞれ前期後期で出展者を完全入れ替え制で展示したようですが、10月の方は私は観ていないのでわかりません。
 

2010年11月4日木曜日

あいちトリエンナーレ2010

観に行った日 10月22日・23日
観に行った感想 ☆☆☆☆★

あいちトリエンナーレについて第一に書きたいことは、会場のボランティアのみなさんが本当に懇切丁寧で雰囲気がよく、かつ作品のこともよく勉強されていて、それを咀嚼したうえで自分の言葉で来場者たちに語りかけていたことだ。一言でいえば、いい仕事をされていた。実を言うとこの種の、○○ナーレという展覧会を体験するのは国内では、2008の横浜トリエンナーレ以来2度目なのだが、横浜ではボランティアへの指導、展示のまずさなど、どこを切っても来るお客さんのことをまったく意に介してないような、ノーケア感が目立ち、「で、いったいどーすりゃいいの?」とプンプンに怒って帰った苦々しいトラウマになっていたので、あまり○○ナーレにいい印象がなかった。が、それを見事に今回払拭してくれた。ひとことで言って好対照、こちらはとてもきめ細やか。良いところとして、たくさん挙げたい点があった。

会場から会場へ移動しているとき道に迷うことがないようにと、会場の手前の交差点などにも誘導のボランティアさんが立っていたこと。最初にもらえるポケットガイドにも地図は載っているけど、長者町という繊維問屋街に点在する作品を回ってもらう展示会場に関しては、わざわざ別途、拡大地図でわかりやすくした別刷りの地図を用意、それを会場最寄の駅構内で配っていたりしたこと。メイン会場である愛知芸術文化センターを出たところですぐ「展覧会の満足度はどうだったか知りたいので」とアンケートの係りの人が駆け寄ってこられたこと。ボランティアの中には、定年してリタイヤされた後と見受けられる結構年配の方も多くいる様子だったが、ボランティアワークをすごく生き生きとこなしていらしたこと。いくつかに分かれた会場同士の距離感も無理の無いちょうど良い近接度だったが、それに加えて無料で乗れるベロタクシーを配置していたこと。地元の学校の生徒一行が先生引率のもと多く訪れ、授業の素材として大いに活用されていたこと(学校の先生が現代美術の作品を一生懸命生徒にも通じるようにわかりやすく噛み砕いて話そうと努力されている光景は好ましく感じられた)。長者町繊維問屋街の人々も「どうせ勝手にやってることでしょ」という他人事な感じではなく、自分たちも一員と言わんばかり展示されているカフェやお店の方が、作品の説明を観ている人にしてくれていたこと。観に行った日はちょうど長者町のお祭りの日と重なっていたが、そこでもお祭りとトリエンナーレが分離しているというより一体となって町の活気を盛り上げている様子だったこと・・・等等。

僕は実は愛知が生まれ故郷なわけだが、今回の観覧を通じ、地元が誇らしく感じられたし、おそらく外の都市から来られたビジターの方たちも満足や好感を持ち帰ってもらえたのではないかと思う。 

次に展示について。まず今回のメイン会場は愛知芸術文化センターだと僕は解釈したが(いわばヴェネチアビエンナーレでいうジャルディーニのなかの展示企画館的存在?)、非常に工夫して上手に展示されているなと思った。上にも書いたとおり僕はもともと愛知の出身なので、この美術館には高校時代よく通って見知っている。でもちょっと最近のかっこいい美術館建築と比べたらオールドスタイルという感じで、現代美術を飾ってキッと引き締まるかというとどちらかというと近代絵画の方が似合う、元々そんな印象の館だ。だがそこにうまく壁を追加して、大きい部屋小さい部屋とスケールにメリハリをつけたり、ルートの組み方で工夫をしたり、その部屋を最大限うまく使えるような作品と巧くマッチングしたりして、空間の最大価値化がなされていた。ちょうど去年ロンドンで見たテート・トリエンナーレが、ミュージアム建築として最新トレンドのテート・モダーンの方でなく、一時代分古い方の館テート・ブリテンで行われていたが、やはり空間のコーディネーションでその不利さをカバーしていたのと共通するものを感じた。

その他の会場、すなわち長者町にしろ納屋橋倉庫においても、そこの空間を非常にキュレーションサイドの手腕なり作家の手腕によって、生かしている好例が多かったように思う。なお、サイトスペシフィックな展示(その場所の土地性歴史性などの固有性を生かしている展示)という意味での一番は、長者町問屋の中の、町のお祭り広場としても使用されている駐車場の壁に設置されたナウィン・ラワンチャイクンの大きなビルボードの作品だったと思う。あれは、トリエンナーレが終わった後も引き続き恒久的に展示し続けて欲しい、すでにこの街のモニュメントだ。

さて、ようやく作品について。おこがましいがヴェネチア・ビエンナーレを真似て僕なりに各賞を設定してみた。あ、ちなみにニブロールとかチェルフィッチュとかスティーブン・コーヘンとか公演系のものはまったく観れていません。池田亮司も観れていません。あくまで自分の観れた作品の中で、以下。最優秀賞:ハンス・オプ・デ・ビーク(映像、ベルギー)。優秀賞:志賀理江子(写真、日本)、曾建華<ツァン・キンワ>)(映像、中国)、アマル・カンワル(映像、インド)、ズリカ・ブアブデラ(インスタレーション、?パリ在住のアルジェリア人作家)、エクトール・サモラ(彫刻、メキシコ)、黄世傑<ホアン・スー・チエ>(彫刻、台湾)、ナウィン・ラワンチャイクン(ミクストメディア、タイ)、孫原+彭禹<スン・ユァン + ポン・ユゥ>(インスタレーション、中国)、泉孝昭(彫刻、日本)、オリヴァー・へリング(映像、ドイツ)。
 
僕はそんなに国際展とか見ているわけではないので、初めて知る作家も多かったのだが、まずハンス・オ・デ・ビークの映像作品。何といっても最初のシーンがファンタスティックだった。重ねたガラスの小皿と、ステンレスの水筒と、発泡スチロールの梱包材をテーブルの上に並べて、その前にミニチュア模型の街路灯を並べ、このテーブルに向かってあてたスポット照明の明るさをゆっくり落としたその瞬間、都市風景が浮かび上がる・・、見とれてしまいました。他にも、エアポートのロビーや冬枯れの林、夜の海に浮かぶ月・・いろんな世界の風景を次々出現させて。デコレーションケーキをケーキサーバーで取り分けた後、指でぼろぼろと崩したら、たちまち廃墟と化した本物の古城に見えたり。ベルギー出身の作家のこの作品が、僕には、冬、外に出られない国の人の作品に思えたのですが、外に出られない厳寒の中、閉じ込められても家の中でこんな魔法を見せてくれるのなら楽しく過ごせていけそうだ、なんて思ったりして。日常をメタモルフォーゼさせるマジシャン、それってアーティストですよね。

黄世傑<ホアン・スー・チエ>は実は数年前NYのアートフェアを観に行ったときに、PULSEという若いギャラリーばかりが集まるフェアでどこかのギャラリーのブースで展示されているのを観たことがあったのだが、今回観てあーしまったー今はもう確実に値上がりして手が届かない値段になっているんだろうけどあの時に買っておけば良かったー! とおもちゃを買い逃した子どものような目でこの作品の場所からしばらく離れずにいた。ちょっと学研の電子工作で作ったロボットくらげみたいな作品なのだが、その動き方といい光り方といい、すごく洗練されているけどジャンクっぽい、みたいなアンバランスなギャップがお洒落に見えるんですよね。使っている材料もすごくチープなんだけど。NYってごみをリユースしてすごくクールなオブジェをつくるクリエイターって多い印象があるけど、だからこの人も僕にはすごくニューヨークのアーティストのかっこよさを感じた(ちなみにYoutubeでもこの人の作品観られます http://www.youtube.com/watch?v=u5LztEM-5Is)

オリヴァー・へリングは、名古屋とドイツとアフリカだったかな、3つの土地の老人ホームでそれぞれ撮った映像をリンクさせて、彼らがあたかもダンスで共演しているかのように演出している映像作品。作家が老人ホームの老人にそれぞれ動作を指示して、それにしたがって老人たちは動いていく。その動画を切り貼りして映像に抑揚をつけてやる。そうすると老人たちは肉体の衰えた彼らにもできる無理の無い範囲での動きをしているにもかかわらず、なかなかに洒落て立派なダンスを踊って見せてくれるのだ。年をとって衰えたり、障害があって何かができなくなる、のではなく、それは組み合わせ方次第、インテリジェンス次第なのではないかと思わさせられた。踊れなくなる、のではなく踊り方を変えればいい、のだ。途中、半身不随になったおじいちゃんが電動車椅子をぐるぐるスピンさせてそのうえにおばあちゃんが乗っかってポーズをとるシーンがあるんだけど、その踊っているときのふたりのヤンチャでいたずらっぽい表情が最高です。僕は、いま仕事のひとつで福祉のウェブサイトの運営をしているのだが、そこで日々感じることともつながっている。すなわち人間はいろいろあっても、知恵を駆使し工夫をして生きていける生き物なんだということ。
    
ちょっと眠くなってきたので、いったんこの辺で。続きは追記の形で書くかも。

最後に「あいちトリエンナーレの目玉って何?」と他人に聞かれたときにさてどれだっけなとちょっと躊躇しまうような、粒は揃っているけど「小粒揃い」というところはあったけど、作品の質、セレクトのバランス、展示の上手さ、ナビゲーション、市民スタッフの働き、地域との関係、どれも僕の中では非常に高いポイントを与えたい、良質なトリエンナーレだった。僕は前回の横浜トリエンナーレを見て、こんな身勝手な展覧会なら次回はなくてもいいし市民の税金が使われるべきでないと思ったが、あいちトリエンナーレについてはぜひ次回も開催して欲しいという気になりました。     
  

2010年10月17日日曜日

有馬かおる@ZENSHI

観に行った日 10月7日
観た感想 ☆☆☆★★

オレオレな絵を描く作家はどんだけでもいそうだけど、「私のあなたのこと」について描いて見せてくれる画家はそんなにいないのではないか。 
有馬かおるさんの絵は地味だけれど、そういう豊かさを持った絵だと思った。
僕は最近再婚した新婚さんなのだけれど、このタイミングでこの人の展覧会に出会えてちょっとハッピーになれたな。
(新婚祝いに一枚買って帰ろうかと考えながら真剣にどれがいいか選別する気持ちで一枚一枚見ました) 

おそらく有馬さん自身が女性とつきあうようになって 
知ったいろいろな美
それは表情だったり、ラインの美しさだったり
ひとりでなくてふたりで過ごす日々の中で出てくるささやかでいとおしい所作ひとつひとつだったり、
あるいは体をくっつけあったり、キスをしたり、セックスをしたりしたときの交わる線だったり、
そういうものが絵のなかに表れている。 
誰かとつきあったことのある人なら、この人の絵の線の味わい深さや、間の微笑ましさがきっとわかるだろう。

面白かったのはふたりというモチーフがさらに一歩進んで、いつのまにか両性的というかアンドロギュノス的というか、ひとりかふたりかわからないようなイメージや男か女かわからないような人間のイメージの絵がたくさんあったこと。そういえば、アンドロギュノスってのは、ギリシャ神話が元となっていて、昔人間は頭がふたつ手足が四本ずつある生き物だったが、あまりに傲慢な態度であったがために神の怒りをかい、真ん中から真っ二つに裂かれて、以来、人間達は失われた「かたわれ」を求めて恋をするのだというお話だったことを思い出した。

他に絵の感想としては、寒山拾得図のような中国の禅宗画などから、サン=テグジュペリの星の王子様のイラストまで、いろんな種類の絵を研究したりしている形跡があるように感じたな。いろいろ試行錯誤しながら自分の絵を手探りしているんだなというか。

あとは、この人の持っている画家道というか、お金やネームバリューなど表面的なことに流されず、ぶれずに続けられていることには、敬意を覚えます。だって、流される人、多いんだもん。  
ただ、正直言うと、有馬さんにとっては鉛筆画は下絵や習作ではなく完成作なのかもしれないけど、
やっぱり僕は、その中でつかんだものをもう1回タブローとして、描いて欲しい気がする。

2010年9月27日月曜日

松浦浩之「Super Acrylic Skin - Sweet Addiction」@東京画廊

観に行った日 9月24日
観た感想 ☆☆☆★★

まず気になったのは乳首の描き方だ。
ちょっと裸の体の描き方がポルノっぽいというか、そこから何かを感じてしまうものがある。
この人、ゲイなんじゃないだろうかとか(陶製の人形作品にファーを着せていたのもなんかドラァグクイーンがつける襟巻きっぽいような・・)、
描かれているのは実は性的な虐待を受けている子どもなんじゃないだろうかとか。
ポップでキッチュな感じの絵と一見見えるけど、同じくピュアな子どもを描く奈良美智よりも、描かれているのがマイノリティの子っぽい気がしてしまう(性的にマイノリティか、貧困なのか、虐待を受けている家庭の子なのか、わからないけども)。   
見てくれは一見、なんとか合金トルーパーみたいに、最強な感じがするけど、それは、むしろ囚われている子どもの、空想ではないのか。 
夢の中ではそこは理想の国で、そこで自分はかっこよくて、ガキーンガキーン、ボディアーマーを装着して、自由にトランスフォームできて、呼べば強力な助っ人(孫悟空型ロボっぽい彫刻が会場の真ん中に置いてあった)までも来て、恐れるものなどない、そこでは無敵な存在。
でも、現実の世界では、剥き身でひ弱な、抵抗できない、蹂躙されてしまうちっぽけな存在、そんな子達なのでは。
なんだか以前見た『パンズ・ラビリンス』という映画のことを連想してしまった(主人公の女の子はある夜妖精が舞う森の迷宮に迷い込む。そこでは自分は失われた国の王女の再来とたたえられる。だがそれとは裏腹に夜が明ければスペイン内戦下の荒れた世で、暴力や殺人の繰り広げられる逃げ出したくなる日常という話)
まあ、以上は僕が展覧会を見ながらした妄想です。でも、入り口入ったところすぐに掛けてあった絵に描かれていた子どもの目に光る涙とか見ても、この人の作品のなかには、ぱっと見のかっこいいカトゥーンポップという印象とは真逆のものが隠されているような気がしてしまう。
 
それはそうと……、作品の値段、尋常とは思えない高さ!

2010年9月24日金曜日

束芋「ててて」@ギャラリー小柳

観に行った日 9月8日
観た感想 ★★★★★

前回のギャラリー小柳の個展で展示されていた映像作品が大好きだった。
だから前回個展は、僕の中のベスト10オブザイヤー2008に入れていた。
さらに、その後に引き続いて開催された、横浜美術館での個展の作品群も非常に見ごたえがあるものだった。

が、今回はつまらなかった。
手抜きだった。
そもそも今度のベネチアビエンナーレ日本代表に選ばれたのを筆頭に人気絶好調とは言え、個展がハイペース過ぎる気もしていた。
しかし作品は売れまくりだった。わからないものだ。
ちなみに、前回のギャラリー小柳でもこれは思ったけど、束芋の平面作品はノベルティグッズ以上の価値ではないと思う。

束芋というアーティストは、自分の中の欠けているものを埋めようとするかのごとく、
自虐的に笑うことで自分を癒すみたいなところが面白いと思ってたけど、
今回の映像は結局なんど見てもギミックだけにしか見えなかった。
前回横浜のときに展示していた油髪女は、僕も「悪人」は読んだけど、あの小説を読んでそこに着眼するんだ、と意表を突かれ、しかもその切り取っている部分が、どこか自分自身の内面告白とも繋がってるんだということを本人が言っていて面白かったのに。
今日唯一の発見は会場に置いてあった画集のなかに出てきた、壁紙の作品だった。壁紙を裂くと、その下から覗いてくるのはおぞましい虫とかぬめった髪の束という絵の作品。
なにか表面のきれいな体裁と、そのなかのドロドロとした実体、そのギャップ。
こうした両極性、裏表が束芋の基本形のような気がしてるんだけど、「らしさ」がよく出ていた。
もうひとつ感じたのは、やっぱりこの人いつも「家」というのがひとつのキーワードになっているよな、ということ。成長過程で何かトラウマにでもなるようなことが実家であったのかしら、と思わずいぶかってしまうことが僕は束芋の作品を観ていてよくある。前回のギャラリー小柳個展で展示されていた映像作品が面白く感じたのも、そういう、「この人にとって『家』とはどういう存在なのだろう」ということを観れば観るほど考えてしまったからだった。

そういう奥深さが今回は感じられなくて退屈だった。
前回見たのは、まごうことなき束芋という人間の中身が、タールのようにどろどろずぶずぶと出ていたけれど、今回は小説『悪人』をモチーフにしてアーティスト(という名のクリエーター)がつくりました、っていう器用な企画モノに見えてしまった。

2010年9月23日木曜日

桑久保徹@トーキョーワンダーサイト渋谷

毎日書こう、2日目。

観た日 2010年8月?日
観た感想 ☆★★★★

観て以来、なんだかずっとモヤモヤして気分が晴れない。「美しいバラック」、そんなふうに形容したくなるようなロマンチックな絵だった。ガラクタ山のようでいて宝石箱のような、あるいは紙屑が舞っているようで、それは粉雪のようにも見える。また音楽が聞こえてきそうでもあった。チェロかアコーディオンか、はたまた映画『デリカテッセン』に出てくるノコギリミュージックか。あと、水平線と空の描き方、とりわけ明け始めの白んだ空の描き方が良い。
それだけに、何でも『仮想の画家「クウォード・ボネ」を設定し、自らそれを演じながら描く』のだそうだが、はっきり言ってそんな小細工はやめたらいいのに(クウォード・ボネというのはクロード・モネをもじった名前らしい)とも思った。だいたい「海の話し 画家の話し」とか、何でわざとらしく明治っぽいルビの送り方にするのだろう。現代アートというのはそんな芸風がないとやっていけないとしたら気の毒なことだ。
デビューするときにはそんなキャッチコピーが役立ったかもしれないとしても、この人の絵がちゃんと存在していそうなだけに、もっとそれ自然体で向き合って「なんちゃってゴッホ」「なんちゃってモネ」「なんちゃって高橋由一」は卒業したら良いと思うというのが僕の勝手な感想。自らフェイクを演じて、自身の絵の本来のよさを見えづらくしてしまうなんて、なんだか悲しい気がする。 

ちなみに・・浜辺の風景画だったせいか、この展覧会を観て以来、北脇 昇「クオ・ヴァディス」(いずこへ行き給うぞ)のことを強く思い出してずっと頭から離れないでいる。